アベンジャーズ エンドゲームを観てから17時間経った

【この先ネタバレがある可能性があります。まだ観ていない方はどうか先に劇場へ行ってください】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   自分はアベンジャーズ エンドゲームに納得していないと思う。

 

   思う、と書いたのは今自分がどんな感情なのかいまいち自分でもわかっていないからだ。

 

   劇場を出て、フードコートでチーズバーガーが売っていたのでそれを注文し食べた。平日のファーストキッチンで泣きながらチーズバーガーを食う奇人が生まれただけだった。隣の席の幼女が心配したのか手を振ってくれたが、すぐさま母親に止められていた。

 

  その後は混乱していたのか時間を2時間ほど勘違いしていたので、バイトまで喫茶店に入ってパンフレットを読んだ。入場特典のクーナッツがちょうど握りやすいサイズ感だったので、握りしめて気を保っていたが、アイアンマンのクーナッツを見てまた泣いたのであんまり意味はなかったかもしれない。というかクーナッツはそこまで要らないなと思っていたのだが、あのサイズ感といい形状といいエンドゲーム視聴後の観客の精神安定用に配られたのでは??????袋を開けてアイアンマンが出てきた瞬間耐えられなくなったのでやめてくれ

 

  その後のバイト中は忘れることができたが、家に帰ったらまた涙が止まらなくなり前のブログを書いた。

 

   本の中の人物につられて涙が出ることは幾らでもあったが、溢れるわけのわからない感情に押されてここまで涙が出るのは初めてで、困惑しながら文章を書いたら少し感情に整理がついた。

 

   それからは、どうして気持ちが宙吊りのまま収まる場所が見つからないのか、この10時間で考えていた。

 

   そして思い当たる事項が1つ見つかった。

それは、「ロバートダウニーJr.がこの結末を受け入れ、納得し、次の段階へと進んでいる」からだ。

 

   自分はそこまで役者と役を同一視する方ではないと思う。普段は役は役者の一面を抜き取ったものだと思っているし、オフの発言をキャラに当てはめたりすることもない。

 

   だがアイアンマンは違うのだ。

他と何が違うんだと問われても、恐らく満足のいく答えは出せないが、アイアンマンとトニースタークとロバートダウニーJr.を、どうやら自分は同一視してしまっていたらしい。

 

   正確に言えば、「根本は同じもの」と捉えていると言えばいいのだろうか

 

   「IRONMAN」が公開されてから11年間、何度も彼らを観てきた。他の役者の違う映画は観られても、彼の出ている映画はアイアンマンしか観られなかった。

 

 

 

 

   その彼が、エンドゲームのプロモーションで度々見せるその姿は、正に、世界を救い、一仕事終えたヒーローそのもので、満足感や達成感、慈愛のようなものが滲んだその表情を観て、こっちが文句を言う余地は無くなってしまった。本人があんな満足げにヒーローを全うして次のへ進もうと微笑みかけているのに、嫌だと駄々をこねられる人はいないだろう。

 

 

 

    自分の感情としてはヒーローの死は到底受け入れられるものではない。死なないから画面の中のヒーローに憧れたのだ。

 

 

   しかし当の本人が満足しているとしたら?それを受け入れないわけにはいかない、と思うほどにアイアンマン、そしてロバウトダウニーJr.が好きになってしまっていた。

 

 

なので今のところは自分の落ち着くべきと思っている場所と、現在の感情の位置のズレから曖昧になっているのだと思う。

視聴後17時間の感想のつもりが気がつけば18時間になってしまった

 

また数時間後に感想を書くと思います

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  正直こんなことを書いたが数時間後にはやっぱり無理だと吐いているかもしれない。

 

アベンジャーズ エンドゲームを観てから7時間が経った

【この先ネタバレがある可能性があります。未視聴の方はどうか先に劇場に足を運んでください】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  エンドゲームを観てから7時間経ちました。

 

  今作はずっと「初期アベンジャーズ」の引退が示唆されていたし、インフィニティウォーのラストで初期アベンジャーズの面々が残された時点で、「ああ彼らが命を賭して皆と地球を救うんだろうな」という予想は頭の片隅でずっとこちらを観ていて、不意に涙が溢れたりと、この1ヶ月は危ない人になっていたと思います。

 

  希望を持っていいのかわからなくて、前作の衝撃が強すぎて、いつもなら時系列を確認したり考察を重ねるのにそれが出来なかった。考えたら彼が死んでしまう気がして、時間が進むこと、公開日が近づくことを恐れることしかできなかった。

 

 

 

  3日前、本当に逃げようと思いました。観なければ終わりはこないと思った。でもアベンジャーズが終わった世界で1人だけ目をそらし続けられる自信は無かったし、何よりヒーローが好きなのに悪役のような考え方をする自分がとても馬鹿みたいだった。

 

    彼がヒーローでなくなる恐怖と、もし彼がずっとヒーローでいてくれるのなら、それを観なければいけないという思いがせめぎ合っていた。

 

 

 

   劇場の椅子に座った時、もう一度逃げ出したくなった。でも両隣の見知らぬ人達が祈るように両手を握りしめているのを見て逃げるのを諦めた。

 

 

 

  そこからは一瞬だった。3時間という長編だったので飲み物を買わずにいたのだが、喉の渇きを覚える間も無く映画は終わった。そのあとは暫く頭痛が酷くて、帰りの駅のホームで水を買ってその場で飲み干した。

 

    彼が生き返るのをずっと待っていた。最後のサプライズがあるんじゃないか?とか、タイムストーンでどうにかなるんじゃないの?とか、エンドクレジットが終わったらしてやったり!みたいな顔で子供を抱きしめながらミスポッツと笑い合っているんじゃないか?とか

 

 でも帰ってはこなかった

終わってしまった

 

   途中、ストレンジの魔術で消えたみんなが集結した時、「ああ、ここまでやってくれるのなら受け入れられるんじゃないか」と思った。まさに総力戦で、自分には不釣り合いなほどの山盛りのご褒美を貰ったと思った。いや、事実貰ったんだと思う。ルッソ監督達も、昨年亡くなられたスタンリーにも、演じてくれた役者達にも、この映画に関わった全ての人たちへの感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

彼はヒーローとしての生を全うした。

 

のだろう。

 

 

   彼の死を悲しんでいるのも事実だし、彼がヒーローとして見せてくれた光景がとても素晴らしいものなのも事実だし、ずっと彼の輝きを見ていたいと思う気持ちも全部本当の気持ちだ。

 

 

   涙は止まらないし、彼の結末に対してどう思っているのかよくわからない。

 

 

 

 

アベンジャーズ エンドゲーム を観たくない

観たくない

終わりを知りたくない

 

まだ何も知らないのに何を言っているんだと思うかもしれないが、終わる可能性がある。と言うことに耐えられないのだ。

 

昔から、ヒーローが最終巻で家庭を持ち子供を持つ姿を見るのが本当に嫌だった。どんなに好きなヒーローでも、それをやられてしまったらもう憧れられなくなった。

 

最初は何だったんだろう。鋼の錬金術かもしれないし、ハリーポッターかもしれないし、よくわからない。でも嫌悪感だけはずっと覚えている。

 

まるで「ヒーローはもう終わりですよ」「いつかは愛する人を守るために世界を捨てるんですよ」と言われるようで、受け入れられなかった

 

不可能をも可能にし、どんな時でも輝きを失わない不可侵の希望が客席に引きずり出されたような感覚。一生見上げていたかったのに、過程も知らされず同じ場所に降りてきてしまった。しかも幸せそうな顔で。

そんなことをされたらもう憧れられない。上を向けない。道を指し示してくれる星は地に堕ちた。

 

どうかここに来ないでくれ。せめて遥か頭上で光り輝き散ってくれ。

 

 

 

 

 

 

于武陵 「歓酒」が好きだという話。そして、「好き」の話

「さよならだけが人生だ」このフレーズが有名な漢詩がある。于武陵の「歓酒」だ。

 

そもそも「さよならだけが人生だ」、というのは井伏鱒二さんによる訳のワンフレーズである。

全文は

 

この盃を受けておくれ

どうぞ並々注がせておくれ

花に嵐の例えもあるぞ

さよならだけが人生だ

 

というものである。

 

解釈は様々あると思うが、

 

人はいつか死ぬ。別れというものからは、どうやっても逃げられない。だから今だけは、どうか仲良くしてくれないか

 

という捉え方が自分は好きだ。

 

時間は有限で、人の命も有限だ。限りがあるものには終わりがある。この限られた時間の中で、相対する貴方と共に過ごしたい。この歌は、とても穏やかで、人に対する愛情が溢れて見えるようだと思う。

 

好意だけでは見えない側面もあるのかもしれない。物事を疑い、本質を見抜く人々に嫉妬し嫌うことがある。自分は好きなものを見て好きな人と関わって生きていきたいと思ってしまう。

 

どうすれば世界の解像度は上がるのか、未だ見えない問いではある。

 

だがしかし、「好き」は世界を広げるのだ。たとえ世界にフィルターをかけてしまうとしても、「好き」がなければ気がつかなかった世界がある。

広げた世界に問いを立て、そこから解像度を上げても良いはずだ。

 

さよならだけが、人生なのだとしたら、まずは多くと出会い、多くを見たい。

さよならを告げるのはその後でいい。

 

明日何かに出会えるように、今日の世界に幕を下ろそう。

人は、夜の時間を埋めるために踠き続けるのではないかと思うことがある。

 

実際には、大半の人は寝ているし、だからこそ何度見ても更新されないタイムラインを見続けて、ただただ襲いくる虚無感に抗う術を探すため、意味のない巡回を続けているだけだ。

 

本来なら瞳を閉じて脳を休めるための時間なのだ。だが何故自分はありもしない理由を求めて彷徨っているのだろう。この道の果てに居場所などは無いのだ。そもそもこれは道ではなく、獣道ですら無い草むらだ。

道から外れ、ただその場に蹲って、昇る朝日を否定する。

自分は、一度寝て仕舞えば朝が来ることを知ってしまったのだ。

 

2019年に観た映画

大脱走

ミスター・ガラス

メリーポピンズ リターンズ

クリムゾンピーク

イントゥザストーム

それでも夜は明ける

オーシャンズ11

インターステラー

オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主

 

見たい映画

キャプテンマーベル

スパイダーマン far from home

アクアマン